お地蔵さんに会いに
遠野市の寺沢高原。

ここに大好きなお地蔵さんがいる。
優しい顔のお地蔵さん。
下界を見下ろせる景色の良いところに立つが、
天気の悪い日は雨風が当たるだろう。
それでもずっと立ち続けている。
そんなお地蔵さんに会いに寺沢へ。
今年はこれが最後かな?
震災の後、いろんな人たちと出会った。
ちゃんと記録として残そうと思って早半年。
白鳥たちが帰ってきた。
もうすぐまた冬が来る。

ここに大好きなお地蔵さんがいる。
優しい顔のお地蔵さん。
下界を見下ろせる景色の良いところに立つが、
天気の悪い日は雨風が当たるだろう。
それでもずっと立ち続けている。
そんなお地蔵さんに会いに寺沢へ。
今年はこれが最後かな?
震災の後、いろんな人たちと出会った。
ちゃんと記録として残そうと思って早半年。
白鳥たちが帰ってきた。
もうすぐまた冬が来る。
サン テン イチイチ
平成23年3月11日。
一生忘れることのできない一日となった。
一日の行動をこれだけ鮮明に覚えていることは、今までの29年でもこの日以外なかったと思う。
記憶を記録として残すために、当日のことを書き留めておきたい。
--------------------------------------------------
その日、ネットワーク工事で使うルータを盛岡市内へ届ける予定だった。目的地は盛岡駅西通り。
大好きなIBCのワイドステーションを聞きながら車を運転し、あと信号二つで目的地というところで、赤信号で停車。
そこへラジオから緊急地震速報のチャイム。
なぜか分からないけど、「これは大きなのが来るぞ」という直感があった。
直後に信号が青になり、後ろに車もいたこともあり、ハーザードを付けて路肩へ。
その直後、大きな揺れに襲われる。
しばらくは車内で様子を見ていたけど、車がひっくり返るかと思うほどの大きな揺れ。
怖くなって外へ出てみると、ビルやマンションはギシギシと音を立て、近くにあった放送局の鉄塔もグラグラと揺れていた。
自転車を運転していた高校生はあまりの揺れで転んでそのまま道路に伏せ、近くで建設中のビルの作業員は皆、建物から避難している様子が見えた。
揺れは5分ほど続いたように記憶している。
今までに経験したことの無い大きさの揺れで、揺れている最中、もうこの世の終わりだとさえ思った。
揺れているさなかに、IBCラジオは緊急特番に切り替わった。
照井アナの
「こちらはIBC報道スタジオです。現在大きく揺れております。身の安全を!」
と懸命に呼びかけていた声をはっきりと覚えている。
揺れが少し収まり、思い浮かんだのは妻と息子の安否、そして一人で暮らす年寄り婆さん。
すぐに電話しようとするも、手が震え、スマホ画面のおかしなところへタッチして、なかなか掛けられない。
やっとかかったと思っても、当然繋がらない。
この日、幸いにも幼稚園が午前保育だったので、息子は家内と一緒にいるであろうから恐らく大丈夫であろうと考え、一人暮らしの90になる婆さんの元へ車を走らせた。
市内は停電となり、信号は消え、建物から出てきた人たちで大混乱。
至る所で消防車のサイレンが鳴り、歩道には泣き出す子供の姿、所々に煙のようなものも見えた。
これはただごとでは無い、そんな予感がした。
ラジオでは照井さんが大津波警報発令を伝えていた。
ようやく婆さんの元へ到着し、無事は確認できた。
家自体には大きな異常はなかったものの、揺れの大きさも相当だったし、1,2分おきに来る震度5程度の余震も半端ではなく、婆さんが震えているのが分かった。
停電がいつ復旧するかも分からないし、一人このまま置いていくのもかわいそうと考え、車へ乗せて実家へ連れて行くことに。
この時点で15時半前頃だったと思う。
自宅や実家へは電話はもちろん繋がらない。
メール等のパケット通信さえも規制がかかって、まったく連絡が取れない。
この時点での情報源は、ラジオと時々繋がるtwitter、そして車に積んだアマチュア無線。
ラジオはNHKが停波し、IBCのみが刻々と入る情報を伝えていた。
電話を何度か掛けているうちに、ようやく家内と実家に連絡が付く。
家内と子供は無事でけがもないことを確認。
実家にはお袋が一人でいたが、相当の被害があることを知る。
本宮の祖母宅から実家までは通常であれば30分もあれば行ける道のりだが、信号が消え、さらに帰宅者の車が一斉に動きだしたために市内は大パニック状態。
交差点で警官が交通整理をしている訳ではなく、ドライバがお互いアイコンタクトで道路を譲り合いながら進む、そんな感じだった。
本宮から豚の鼻を抜けて駅前通、中央通へと抜け、裁判所前から455号に出たものの、既に1時間経過。
けが人を乗せたであろう救急車が列をなして、医大や救命センター方面へ走っていく。
医大付近からは渋滞が全く動かなくなり、上田から北山トンネルを抜けるルートに変更、そちらは大きな渋滞がなくスムーズに動いた。
車を運転しているさなかでも余震が何度となく来て、そのたびに車が大きく横に揺れる。
緊急地震速報も何度となく流れる。
そして、外では雪が舞っていた。
車の温度計が氷点下5度を表示していたように記憶している。
ようやく実家へ付いたのは17時頃だったと思う。
実家の被害は大きく、壁に亀裂が入り、揺れで窓がサッシから外れてガラスが割れて散乱、クローゼットの戸が外れ、本棚や食器棚は50センチほど動きまわり、仏壇から飛び出た祖父さんの遺影や位牌が倒れていた。棚から落ちた物が散乱して足の踏み場がないほどだった。
普段なら、冬の17時といえば家の中では電気を付けないと部屋が真っ暗だが、停電で電気は点かないし、散乱したガラスを片づけようにも、掃除機が使えない。
真っ暗な家の中でとても1時間2時間で片づくようなものでは無く、とりあえず安全な和室に寝るだけのスペースを確保。
この日、親父は秋田へ出張に行っていた。
トラックに溶接機(=ディーゼル発電機になる)が積んであったので、ひとまず帰って来るまでの我慢と判断。
何はともあれ、無事に婆さんを実家へ送り届けたので、次は自宅へ急ぐことにした。
車のガソリンがあと1目盛りちょっとしか残っていなかったこともあり、暖房はOFF。
外は雪で寒かったが貴重なガソリンなので我慢する他なかった。
ラジオから聞こえて来るのは沿岸部の津波を伝える情報で、やはり今までにない規模の大きな地震であることを感じる。
これがどうか夢であって欲しいと思っていた。
桜台の実家から紫波の自宅へは、どのルートで帰ったか途中記憶が無いところがある。
市内は大渋滞だろうとの予測があったので、桜台から浅岸、綱取ダム方面へ抜けた。オーロパークから106号を横切って、ここから先がはっきりしない。
手代森から確かアップルロードを通って乙部へ抜けたような覚えがあるが、はっきりしないのだ。
396号線から456号線へ抜け、紫波橋を渡って会社へ着いた記憶は残っている。
置きっぱなしだった商売道具のノートPCを回収。
会社の中は目立った被害が無かったので一安心。
自宅へ着いたのは確か19時半頃。
大きな被害は無かった。
電気は無いものの、幸いにもガス、水道が使えた。
食料はそこそこ備蓄があったので、4,5日分くらいはなんとかなりそうとのこと。
反射式ストーブなどがなかったので、ストーブが無く、吐く息が白く見えるほど寒かった。が、着込んで我慢。
少ない乾電池をかき集めて懐中電灯を付け、なんとかかんとか夕飯の準備をして食べるが、このときも30分おきぐらいの揺れで、緊張の糸がほぐれることが無かった。
発震からずっとラジオを付けっぱなしだったが、IBCの情報は本当にありがたかった。
まさに生命線であった。
リスナーからのメールがたくさん読まれ、どこの被害状況がどう、とか、道路に陥没がある、とか、電気は東北全体で停電とか、原発がどうなっているとか・・・。
そして、twitterでも多くの情報が取れた。
岩泉がどうなっているとか、都心では交通網がマヒとか。
ただ、この時点で沿岸部の情報は極端に少なかった。
岩泉の祖母宅へ電話を掛けるも、まったく通じない。
あとから分かったが、津波で宮古の交換局?がダウンし、そこから繋がる岩泉もダウンしたようだ。
そして、外ではヘリコプターの飛ぶ音。
恐らく花巻空港へ着陸する自衛隊機だろうか。
夜は1階の和室に布団を敷いて3人で雑魚寝。
しかし、頻繁に来る余震への恐怖からか一睡もできずに朝を迎えた。
一度外へ出たのだが、当然停電で真っ暗、そしてキンキンに冷えていたが、星がとてもきれいだった。
--------------------------------------------------
時は流れ、
1ヶ月後には品薄だったガソリンの物流が徐々に復旧、
内陸部では食べ物が少ないものの物流は戻りつつあった。
2ヶ月経つ頃には連休に合わせて桜が満開となり、
多くのボランティアが県内を訪れ、遠野はとても
たくさんの人であふれていた。
物流もほぼ元に戻り、買い物にも苦労しなくなった。
そして3ヶ月が経った。
訃報がいくつも届いた。
消防団として活動中に波に飲まれた親戚、
高田に帰省していた後輩、
昔一緒に根浜で遊んだ友達、
英語教育を力説した高校時代の先生。
そして、まだ見つかっていない友人。
なぜ、「1000年に1度」がこのタイミングなのか。
津波がとても憎い。でも、海は嫌いになれない。
釜石、大槌へ何度か行ったが、復興へ向けて少しづつ進んでいる。
地震1ヶ月後に比べればがれきは撤去されてきたが、
それでもまだ手つかずのところもたくさんある。
私個人としては震災直後から復旧関連の仕事が相次いだが、一段落した。
遅ればせながら、私もこれから沿岸部を直接支援する動きをしようと思う。
何年かかるかまったく未知数だけど、できるこをと手伝って行きたい。
内陸から沿岸をガンガン支援していこう。
岩手に生きる者の使命であると感じている。
できることを全力でやろう。
たくさんの自衛隊、警察、消防、工事関係者、各地から来たボランティア、本当に頭が下がる思いである。
兵庫から来た自衛隊、
大阪府警のパトカー、
四国から来たタンクローリー、
沖縄から来た救急ヘリ。
そしてここには書ききれない多くのご支援を頂いた方々、
本当に本当にありがとうございます。
岩手はがんばります。
ふるさとは負けない!
一生忘れることのできない一日となった。
一日の行動をこれだけ鮮明に覚えていることは、今までの29年でもこの日以外なかったと思う。
記憶を記録として残すために、当日のことを書き留めておきたい。
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その日、ネットワーク工事で使うルータを盛岡市内へ届ける予定だった。目的地は盛岡駅西通り。
大好きなIBCのワイドステーションを聞きながら車を運転し、あと信号二つで目的地というところで、赤信号で停車。
そこへラジオから緊急地震速報のチャイム。
なぜか分からないけど、「これは大きなのが来るぞ」という直感があった。
直後に信号が青になり、後ろに車もいたこともあり、ハーザードを付けて路肩へ。
その直後、大きな揺れに襲われる。
しばらくは車内で様子を見ていたけど、車がひっくり返るかと思うほどの大きな揺れ。
怖くなって外へ出てみると、ビルやマンションはギシギシと音を立て、近くにあった放送局の鉄塔もグラグラと揺れていた。
自転車を運転していた高校生はあまりの揺れで転んでそのまま道路に伏せ、近くで建設中のビルの作業員は皆、建物から避難している様子が見えた。
揺れは5分ほど続いたように記憶している。
今までに経験したことの無い大きさの揺れで、揺れている最中、もうこの世の終わりだとさえ思った。
揺れているさなかに、IBCラジオは緊急特番に切り替わった。
照井アナの
「こちらはIBC報道スタジオです。現在大きく揺れております。身の安全を!」
と懸命に呼びかけていた声をはっきりと覚えている。
揺れが少し収まり、思い浮かんだのは妻と息子の安否、そして一人で暮らす年寄り婆さん。
すぐに電話しようとするも、手が震え、スマホ画面のおかしなところへタッチして、なかなか掛けられない。
やっとかかったと思っても、当然繋がらない。
この日、幸いにも幼稚園が午前保育だったので、息子は家内と一緒にいるであろうから恐らく大丈夫であろうと考え、一人暮らしの90になる婆さんの元へ車を走らせた。
市内は停電となり、信号は消え、建物から出てきた人たちで大混乱。
至る所で消防車のサイレンが鳴り、歩道には泣き出す子供の姿、所々に煙のようなものも見えた。
これはただごとでは無い、そんな予感がした。
ラジオでは照井さんが大津波警報発令を伝えていた。
ようやく婆さんの元へ到着し、無事は確認できた。
家自体には大きな異常はなかったものの、揺れの大きさも相当だったし、1,2分おきに来る震度5程度の余震も半端ではなく、婆さんが震えているのが分かった。
停電がいつ復旧するかも分からないし、一人このまま置いていくのもかわいそうと考え、車へ乗せて実家へ連れて行くことに。
この時点で15時半前頃だったと思う。
自宅や実家へは電話はもちろん繋がらない。
メール等のパケット通信さえも規制がかかって、まったく連絡が取れない。
この時点での情報源は、ラジオと時々繋がるtwitter、そして車に積んだアマチュア無線。
ラジオはNHKが停波し、IBCのみが刻々と入る情報を伝えていた。
電話を何度か掛けているうちに、ようやく家内と実家に連絡が付く。
家内と子供は無事でけがもないことを確認。
実家にはお袋が一人でいたが、相当の被害があることを知る。
本宮の祖母宅から実家までは通常であれば30分もあれば行ける道のりだが、信号が消え、さらに帰宅者の車が一斉に動きだしたために市内は大パニック状態。
交差点で警官が交通整理をしている訳ではなく、ドライバがお互いアイコンタクトで道路を譲り合いながら進む、そんな感じだった。
本宮から豚の鼻を抜けて駅前通、中央通へと抜け、裁判所前から455号に出たものの、既に1時間経過。
けが人を乗せたであろう救急車が列をなして、医大や救命センター方面へ走っていく。
医大付近からは渋滞が全く動かなくなり、上田から北山トンネルを抜けるルートに変更、そちらは大きな渋滞がなくスムーズに動いた。
車を運転しているさなかでも余震が何度となく来て、そのたびに車が大きく横に揺れる。
緊急地震速報も何度となく流れる。
そして、外では雪が舞っていた。
車の温度計が氷点下5度を表示していたように記憶している。
ようやく実家へ付いたのは17時頃だったと思う。
実家の被害は大きく、壁に亀裂が入り、揺れで窓がサッシから外れてガラスが割れて散乱、クローゼットの戸が外れ、本棚や食器棚は50センチほど動きまわり、仏壇から飛び出た祖父さんの遺影や位牌が倒れていた。棚から落ちた物が散乱して足の踏み場がないほどだった。
普段なら、冬の17時といえば家の中では電気を付けないと部屋が真っ暗だが、停電で電気は点かないし、散乱したガラスを片づけようにも、掃除機が使えない。
真っ暗な家の中でとても1時間2時間で片づくようなものでは無く、とりあえず安全な和室に寝るだけのスペースを確保。
この日、親父は秋田へ出張に行っていた。
トラックに溶接機(=ディーゼル発電機になる)が積んであったので、ひとまず帰って来るまでの我慢と判断。
何はともあれ、無事に婆さんを実家へ送り届けたので、次は自宅へ急ぐことにした。
車のガソリンがあと1目盛りちょっとしか残っていなかったこともあり、暖房はOFF。
外は雪で寒かったが貴重なガソリンなので我慢する他なかった。
ラジオから聞こえて来るのは沿岸部の津波を伝える情報で、やはり今までにない規模の大きな地震であることを感じる。
これがどうか夢であって欲しいと思っていた。
桜台の実家から紫波の自宅へは、どのルートで帰ったか途中記憶が無いところがある。
市内は大渋滞だろうとの予測があったので、桜台から浅岸、綱取ダム方面へ抜けた。オーロパークから106号を横切って、ここから先がはっきりしない。
手代森から確かアップルロードを通って乙部へ抜けたような覚えがあるが、はっきりしないのだ。
396号線から456号線へ抜け、紫波橋を渡って会社へ着いた記憶は残っている。
置きっぱなしだった商売道具のノートPCを回収。
会社の中は目立った被害が無かったので一安心。
自宅へ着いたのは確か19時半頃。
大きな被害は無かった。
電気は無いものの、幸いにもガス、水道が使えた。
食料はそこそこ備蓄があったので、4,5日分くらいはなんとかなりそうとのこと。
反射式ストーブなどがなかったので、ストーブが無く、吐く息が白く見えるほど寒かった。が、着込んで我慢。
少ない乾電池をかき集めて懐中電灯を付け、なんとかかんとか夕飯の準備をして食べるが、このときも30分おきぐらいの揺れで、緊張の糸がほぐれることが無かった。
発震からずっとラジオを付けっぱなしだったが、IBCの情報は本当にありがたかった。
まさに生命線であった。
リスナーからのメールがたくさん読まれ、どこの被害状況がどう、とか、道路に陥没がある、とか、電気は東北全体で停電とか、原発がどうなっているとか・・・。
そして、twitterでも多くの情報が取れた。
岩泉がどうなっているとか、都心では交通網がマヒとか。
ただ、この時点で沿岸部の情報は極端に少なかった。
岩泉の祖母宅へ電話を掛けるも、まったく通じない。
あとから分かったが、津波で宮古の交換局?がダウンし、そこから繋がる岩泉もダウンしたようだ。
そして、外ではヘリコプターの飛ぶ音。
恐らく花巻空港へ着陸する自衛隊機だろうか。
夜は1階の和室に布団を敷いて3人で雑魚寝。
しかし、頻繁に来る余震への恐怖からか一睡もできずに朝を迎えた。
一度外へ出たのだが、当然停電で真っ暗、そしてキンキンに冷えていたが、星がとてもきれいだった。
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時は流れ、
1ヶ月後には品薄だったガソリンの物流が徐々に復旧、
内陸部では食べ物が少ないものの物流は戻りつつあった。
2ヶ月経つ頃には連休に合わせて桜が満開となり、
多くのボランティアが県内を訪れ、遠野はとても
たくさんの人であふれていた。
物流もほぼ元に戻り、買い物にも苦労しなくなった。
そして3ヶ月が経った。
訃報がいくつも届いた。
消防団として活動中に波に飲まれた親戚、
高田に帰省していた後輩、
昔一緒に根浜で遊んだ友達、
英語教育を力説した高校時代の先生。
そして、まだ見つかっていない友人。
なぜ、「1000年に1度」がこのタイミングなのか。
津波がとても憎い。でも、海は嫌いになれない。
釜石、大槌へ何度か行ったが、復興へ向けて少しづつ進んでいる。
地震1ヶ月後に比べればがれきは撤去されてきたが、
それでもまだ手つかずのところもたくさんある。
私個人としては震災直後から復旧関連の仕事が相次いだが、一段落した。
遅ればせながら、私もこれから沿岸部を直接支援する動きをしようと思う。
何年かかるかまったく未知数だけど、できるこをと手伝って行きたい。
内陸から沿岸をガンガン支援していこう。
岩手に生きる者の使命であると感じている。
できることを全力でやろう。
たくさんの自衛隊、警察、消防、工事関係者、各地から来たボランティア、本当に頭が下がる思いである。
兵庫から来た自衛隊、
大阪府警のパトカー、
四国から来たタンクローリー、
沖縄から来た救急ヘリ。
そしてここには書ききれない多くのご支援を頂いた方々、
本当に本当にありがとうございます。
岩手はがんばります。
ふるさとは負けない!
天国へ。
ある日の夕方、仕事しているところへ携帯に妹からの着信。
何かと思い電話に出てみると、ジイさんが亡くなったとの知らせ。
すぐにオヤジと連絡を取り、ジイさんのところへ雪道を急ぐ。
ふっくらしていた頬はすっかり痩せこけていた。
どこかに面影はあったが、自分の記憶の中にあるジイさんとは別人に思えた。
10年ぶりの再会がこんな形になるとは。。。。。
それからが怒濤の1週間であった。
通夜、火葬、葬儀、納骨、バタバタと時間が過ぎていく。
一通り終わると、今度はジイさんが住んでいたアパートの片付け。
ばあちゃんは20年前に亡くなり、ジイさん一人でアパートに住んでいた。
おふくろが時々様子を見に行っていたが、それでも何がどこになるのかは定かでは無い。
通帳、印鑑、アルバム、保険証、
ゆっくり見る時間もなく、あれやこれやと目に入ったものから片づけていくしかなかった。
大工をやっていたので、鉋やノコギリ、砥石、丸鋸から釘、木材に至るまで、仕事で使ったありとあらゆるモノが出てくる。
音楽や読書が好きだったので、小説やCDもたくさんあった。
家財道具をトラックへ積み込み、オヤジの工場へ運ぶ。
アパートへ戻ってまた積み込み、そして工場で下ろす。
車2台で二日がかり、おそらく10往復はしたか。
家財道具が一通り片付くと、つぎに部屋の掃除。
ホーマックで買ったオレンジ系の洗剤を壁に吹きかけ、時間をおいて拭き取る。
それを何十回と繰り返す。
そんなことと平行して、諸々の手続きにも走る。
やれ市役所だ、やれ銀行だ、やれ管理会社、そして次は郵便局だ、と。
印鑑証明だ、戸籍謄本だ、除籍の謄本だ、いろんな書類が必要となり、取りに走った。
一通り落ち着いたころに、ふと1週間を振り返った。
家を出てから兄妹家族がみんな集まったのは実は初めてだった。
それぞれがバラバラに実家へ行くので、なかなか集まることはなかった。
兄とゆっくり話しをしたのは恐らく5年ぶりであろう。
妹と会うのも、2年ぶりくらいか。
甥っ子達は大きくなっていた。
うちのチビより半年遅く産まれた甥っ子は、身長体重共に追い越していた。
最後にジイさんに会ったのは具体的にいつかは覚えていない。
アパートへの引っ越しの記録を辿ると11年か12年前になる。
それ以来、心のどこかに「顔出さなきゃな」という思いがあったが、
それを行動に移すことができなかった。それを後悔した。
あとからおふくろに聞いた話だが、
3年前にオヤジが入院した時、たまたま同じ病院の外来に来たジイさんに待合室でばったりと会ったとのことであった。
ポリープができて検査に来た、との話だったらしい。
何度かオヤジの見舞いに行っていたが、ひょっとしてすれ違っていたのかも知れないと思うと、切なくなった。
火葬のあと、出てきたお骨がやけに小さく見えた。
病気と闘った人のお骨はとても小さくなると聞いたことがある。
ひょっとしたらジイさんも何かと闘っていたのかも知れない。
火加減によるものかも知れないが、定かではない。
手続きの中で、昔の戸籍謄本を初めて見た。
コンピュータが無い時代、手書きで書かれた戸籍謄本。
ジイさんの名前はもちろん、おふくろやその兄姉、ジイさんの兄弟や両親、その親まで、
初めて知る自分のルーツであり、不思議が感じがした。
銀行へ手続きに行くとき、おふくろが言った一言が突き刺さっている。
「なんだかんだと良い勉強にはなったが、できれば経験したくないね」
それは全く同感だ。
なんやかんやと事務手続きは面倒だし、片付けに労力は使うし、雪に埋もれたお墓の除雪だって大変。
寒い中でバタバタして、これでオヤジおふくろに倒れられたらと気が気でならなかったが、
確かにジイさんに勉強させてもらったと想いは大きい。
みんなずっと元気でいてくれればそれに越したことは無い。
しかし、そこには避けて通れない現実がある。
今は元気な祖母ちゃんも、オヤジもおふくろも、そして自分も。
いずれは「そのとき」が来る。
ただ、「親の近くにいる」ことの意味をこのときほど痛感したことはなかった。
オヤジやおふくろに何かあったときにすぐに駆けつけられる。
自分が行けなくても、兄や妹が近くにいて駆けつけてくれる。
言葉で表現するのは難しいが、「安心感」と表現するのが一番近いのか。
思えば20年前、岩泉のじいちゃんが倒れて救急搬送された時、最初に駆けつけたのはオヤジだった。
兄弟の中で一番近くにいるというのもあるが、オヤジにはそういった「覚悟」があったのかも知れない。
人工呼吸器を付けたじいちゃんを見るオヤジの背中を、
当時まだ小学生だったが今でもはっきりと覚えている。
知らず知らずのうちに自分もオヤジの背中を追ってるんだなぁ、と少し恥ずかしくもなった。
これは後日談だが、
チビ助が突然思い出したかのように、
「そういえば『オフクロ』って誰のこと?」
と聞いてきた。
諸々の準備や片付けをしている中で「おふくろ、これどうすんだ?」などという会話を聞いていたのだ。
彼も彼なりに自分の背中を追いかけてきていることを感じた。
追いかけられても恥ずかしくない道を歩まないと。
遺影のジイさんは優しく笑っていた。
10年前の、記憶に残っているジイさん、そのままだった。
ジイさんが遺していったものは、形こそ無いが、とてつもなく大きなものであった。
それを心底痛感した1週間であった。
ジイさん、
寄り道しないで天国のばあちゃんのところへ行ってね。
ありがとう。
ごめんなさい。
そして、どうか安らかに。
何かと思い電話に出てみると、ジイさんが亡くなったとの知らせ。
すぐにオヤジと連絡を取り、ジイさんのところへ雪道を急ぐ。
ふっくらしていた頬はすっかり痩せこけていた。
どこかに面影はあったが、自分の記憶の中にあるジイさんとは別人に思えた。
10年ぶりの再会がこんな形になるとは。。。。。
それからが怒濤の1週間であった。
通夜、火葬、葬儀、納骨、バタバタと時間が過ぎていく。
一通り終わると、今度はジイさんが住んでいたアパートの片付け。
ばあちゃんは20年前に亡くなり、ジイさん一人でアパートに住んでいた。
おふくろが時々様子を見に行っていたが、それでも何がどこになるのかは定かでは無い。
通帳、印鑑、アルバム、保険証、
ゆっくり見る時間もなく、あれやこれやと目に入ったものから片づけていくしかなかった。
大工をやっていたので、鉋やノコギリ、砥石、丸鋸から釘、木材に至るまで、仕事で使ったありとあらゆるモノが出てくる。
音楽や読書が好きだったので、小説やCDもたくさんあった。
家財道具をトラックへ積み込み、オヤジの工場へ運ぶ。
アパートへ戻ってまた積み込み、そして工場で下ろす。
車2台で二日がかり、おそらく10往復はしたか。
家財道具が一通り片付くと、つぎに部屋の掃除。
ホーマックで買ったオレンジ系の洗剤を壁に吹きかけ、時間をおいて拭き取る。
それを何十回と繰り返す。
そんなことと平行して、諸々の手続きにも走る。
やれ市役所だ、やれ銀行だ、やれ管理会社、そして次は郵便局だ、と。
印鑑証明だ、戸籍謄本だ、除籍の謄本だ、いろんな書類が必要となり、取りに走った。
一通り落ち着いたころに、ふと1週間を振り返った。
家を出てから兄妹家族がみんな集まったのは実は初めてだった。
それぞれがバラバラに実家へ行くので、なかなか集まることはなかった。
兄とゆっくり話しをしたのは恐らく5年ぶりであろう。
妹と会うのも、2年ぶりくらいか。
甥っ子達は大きくなっていた。
うちのチビより半年遅く産まれた甥っ子は、身長体重共に追い越していた。
最後にジイさんに会ったのは具体的にいつかは覚えていない。
アパートへの引っ越しの記録を辿ると11年か12年前になる。
それ以来、心のどこかに「顔出さなきゃな」という思いがあったが、
それを行動に移すことができなかった。それを後悔した。
あとからおふくろに聞いた話だが、
3年前にオヤジが入院した時、たまたま同じ病院の外来に来たジイさんに待合室でばったりと会ったとのことであった。
ポリープができて検査に来た、との話だったらしい。
何度かオヤジの見舞いに行っていたが、ひょっとしてすれ違っていたのかも知れないと思うと、切なくなった。
火葬のあと、出てきたお骨がやけに小さく見えた。
病気と闘った人のお骨はとても小さくなると聞いたことがある。
ひょっとしたらジイさんも何かと闘っていたのかも知れない。
火加減によるものかも知れないが、定かではない。
手続きの中で、昔の戸籍謄本を初めて見た。
コンピュータが無い時代、手書きで書かれた戸籍謄本。
ジイさんの名前はもちろん、おふくろやその兄姉、ジイさんの兄弟や両親、その親まで、
初めて知る自分のルーツであり、不思議が感じがした。
銀行へ手続きに行くとき、おふくろが言った一言が突き刺さっている。
「なんだかんだと良い勉強にはなったが、できれば経験したくないね」
それは全く同感だ。
なんやかんやと事務手続きは面倒だし、片付けに労力は使うし、雪に埋もれたお墓の除雪だって大変。
寒い中でバタバタして、これでオヤジおふくろに倒れられたらと気が気でならなかったが、
確かにジイさんに勉強させてもらったと想いは大きい。
みんなずっと元気でいてくれればそれに越したことは無い。
しかし、そこには避けて通れない現実がある。
今は元気な祖母ちゃんも、オヤジもおふくろも、そして自分も。
いずれは「そのとき」が来る。
ただ、「親の近くにいる」ことの意味をこのときほど痛感したことはなかった。
オヤジやおふくろに何かあったときにすぐに駆けつけられる。
自分が行けなくても、兄や妹が近くにいて駆けつけてくれる。
言葉で表現するのは難しいが、「安心感」と表現するのが一番近いのか。
思えば20年前、岩泉のじいちゃんが倒れて救急搬送された時、最初に駆けつけたのはオヤジだった。
兄弟の中で一番近くにいるというのもあるが、オヤジにはそういった「覚悟」があったのかも知れない。
人工呼吸器を付けたじいちゃんを見るオヤジの背中を、
当時まだ小学生だったが今でもはっきりと覚えている。
知らず知らずのうちに自分もオヤジの背中を追ってるんだなぁ、と少し恥ずかしくもなった。
これは後日談だが、
チビ助が突然思い出したかのように、
「そういえば『オフクロ』って誰のこと?」
と聞いてきた。
諸々の準備や片付けをしている中で「おふくろ、これどうすんだ?」などという会話を聞いていたのだ。
彼も彼なりに自分の背中を追いかけてきていることを感じた。
追いかけられても恥ずかしくない道を歩まないと。
遺影のジイさんは優しく笑っていた。
10年前の、記憶に残っているジイさん、そのままだった。
ジイさんが遺していったものは、形こそ無いが、とてつもなく大きなものであった。
それを心底痛感した1週間であった。
ジイさん、
寄り道しないで天国のばあちゃんのところへ行ってね。
ありがとう。
ごめんなさい。
そして、どうか安らかに。
甦る2008年6月14日
年末、忘年会で県南一関へ。
温泉宿に一泊した翌日、国道342号線を西へ。
2008年の岩手・宮城内陸地震で崩壊した祭畤大橋が開通したとのことで、
温泉から近いこともあり行ってみることに。
現場には橋を見渡せるように防災公園ができており、到着すると目の前に
テレビで見ていた光景が広がる。



あんな巨大な橋桁が、人差し指で押したかのように簡単に崩れている。
想像はしていたけど、テレビで見るのとはその迫力が違う。
自然の驚異をまざまざを見せつけられた。
途中、国道の両側は至るところに崖崩れの後が見えた。
それは単に「崩れた」という言葉では言い表せないくらいの大規模なものも。
思えばあのとき、自宅で揺れから子供を守るのに必死だった。
子供をテーブルの下に入れ、そのすぐそばの水槽を押さえる。
幸いにも大きな被害はなかったけど、揺れが収まったあとの子供の怯えた顔が
今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。
宮城県沖を震源とする地震が起きる確率は今後30年で99%。
備えあれば憂いなし。
そんなことを痛感した年末だった。
大変遅ればせながら、本年もよろしくお願いいたします。
温泉宿に一泊した翌日、国道342号線を西へ。
2008年の岩手・宮城内陸地震で崩壊した祭畤大橋が開通したとのことで、
温泉から近いこともあり行ってみることに。
現場には橋を見渡せるように防災公園ができており、到着すると目の前に
テレビで見ていた光景が広がる。



あんな巨大な橋桁が、人差し指で押したかのように簡単に崩れている。
想像はしていたけど、テレビで見るのとはその迫力が違う。
自然の驚異をまざまざを見せつけられた。
途中、国道の両側は至るところに崖崩れの後が見えた。
それは単に「崩れた」という言葉では言い表せないくらいの大規模なものも。
思えばあのとき、自宅で揺れから子供を守るのに必死だった。
子供をテーブルの下に入れ、そのすぐそばの水槽を押さえる。
幸いにも大きな被害はなかったけど、揺れが収まったあとの子供の怯えた顔が
今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。
宮城県沖を震源とする地震が起きる確率は今後30年で99%。
備えあれば憂いなし。
そんなことを痛感した年末だった。
大変遅ればせながら、本年もよろしくお願いいたします。
勝手に秋を堪能 その1
毎年のことだが、あれよあれよと師走へ突入。
忙しいふりしていたけど、秋はしっかり堪能。
11月某日の高松界隈。













誰に褒められる訳でも無いのに、木々が一斉に、しかもここまで鮮やかな色を出し、
四季折々に様々な表情を見せてくれる。
自然の力とは不思議なもの。
きっと、人間が見ている自然の力なんて、氷山のほんの一角なんだろうな。
2010年も残りわずか。
大きな案件がピークを迎えて、ほとんど家にいなかった前半。
どうもすっきりしないことが続いて、なんだかゴニョゴニョした後半。
昨年の12月は札幌へ行ったんだ。
飛行機の窓から外を眺め、眼下に広がる雲を見て癒された。
千歳-花巻のわずか40分。
自分がちっぽけに思えた40分。
今年は頭の上の雲を眺めている時間が多かったように思う。
雲を見ながら、何かを考えていた訳でもなく、ただぼーっと。
一年で何も成長していないジブン。。。
忙しいふりしていたけど、秋はしっかり堪能。
11月某日の高松界隈。













誰に褒められる訳でも無いのに、木々が一斉に、しかもここまで鮮やかな色を出し、
四季折々に様々な表情を見せてくれる。
自然の力とは不思議なもの。
きっと、人間が見ている自然の力なんて、氷山のほんの一角なんだろうな。
2010年も残りわずか。
大きな案件がピークを迎えて、ほとんど家にいなかった前半。
どうもすっきりしないことが続いて、なんだかゴニョゴニョした後半。
昨年の12月は札幌へ行ったんだ。
飛行機の窓から外を眺め、眼下に広がる雲を見て癒された。
千歳-花巻のわずか40分。
自分がちっぽけに思えた40分。
今年は頭の上の雲を眺めている時間が多かったように思う。
雲を見ながら、何かを考えていた訳でもなく、ただぼーっと。
一年で何も成長していないジブン。。。



